「なんとなく」の人生を歩んできた私、「夢」「山登り」の話
先日、機会をいただき「夢・志」について中学生にお話をさせてもらいました。
とはいえ、私はそのようなことに無縁の人生を歩んできたので「夢がある人を羨ましいと思いながら、自分の夢を決められなかった人」の立場でお話をしてきました。
自分で目標を決め、主体的に生きるということは、山登りに似ていると思います。
この山を登る!と決めて、一歩一歩登り続けることです。
少し登って装備品が足りないことに気づくかもしれない
「自分が登りたいのはこの山ではないかも」と思うかもしれない
「やっぱり海に行きたいな」と感じるかもしれない
途中で降りてまた登り直してもいい
他の山へ登ってもいい
海へ向かってもいい
山を登り切ったら視界がひらけ、嬉しいかもしれないし、もっと高い山が見えて悔しいかもしれない。
そこから、近くの山々を制覇していってもいいし、海に向かってもいいし、より遠くのより高い山に登ってもいい。
山を登るには、一歩ずつ自分で足をすすめるしか方法はないけど、一歩進むごとに見える景色は変る。
そうやって、自分で目指す目標を決め、自分の足で進み、自分の目で見ることが主体的に生きるということなのだと思います。
夢や志は、この山登りの為のエネルギー源
誰に言われるでもなく、夢中になれる、やってしまう
そんなものだと思っていました。
私には夢や志がありませんでした。
わからなかった、決められなかった、が正しいかもしれません。
高校・大学と進学し、就職し、特に不自由なくらしをしていたわけではありません。
でも、全部「なんとなく決まった」「なんとなくそうなった」そんな人生だった気がします。
だから、私は夢や志がある人が羨ましかったのです。
地図を眺めてはどの山がいいか考えたり、登ってきた人の話を聞いてすごい!と思ったり、その人の応援をしたり他の人に「こんなすごい人がいるんだよ」と言ったり。
でも、自分では山登りに出かけられていなかったのです。
夢や志は、確かに原動力かもしれません。
でも、登ることによって見えたりすること、登りきった自分に自身が持てること、登ること自体もまた 夢や志を形作っていくものなのだとわかりました。
夢がないから、目標がないから、登っている他の人を羨ましいと思うけど自分が行く山を決められない。人に進められて一歩踏み出してみたけど、他の人から「この山はろくなもんじゃないよ」という話が聞こえてきてすぐ立ち止まってしまう。
まさにそんな人生でした。
それでも、どの山か自分で決めて一歩を踏み出し、登り続けてみる以外、自分の夢や志を決めることは出来ないのだなとわかりました。
地域おこし協力隊になった時は、協力隊活動をしつつ「自分の行き先を考える時間にしよう」と思っていました。
でも、自分で行き先を決めていなかったので、他の人の勧めを聞いてばかりだったので、ブレブレでした。自分で決めて、自分の足で登っていなかったので、周りの景色も見れていませんでした。
最近ようやく、その登山を始めています。
夢、志、進路、多様な今の時代にはわかりにくく、決めにくい人も多いのではないかと思います。むしろ決めない人生であっても生きていくことはできるし、その中でも幸せを見いだしそこから決めることもあると思います。
でも、決めず、決めることも諦めず、ただ羨ましがるだけでは何にもなれません。
そして、私はやはり「決める人生、夢や志のある人生にしたい」と思います。
途中で変えてもいい、やめてもいい。
その時々に揺るがない軸があれば、決めて進めていれば、何でもありだと思います。
そうして進んでいくうちに、自分にとっての北極星を作れるのだと思います。それさえ見失わなければ、いつも正しい方へ向かうことのできる北極星を。
今までの自分を振り返りながら、こんな話を(もっと拙かったですが)中学生にお話させてもらったのでした。
私は気付いて動き出したのが30歳過ぎてからでしたが、どの年齢でも遅くはないと思っています。
ただ、私と同じように「決められないな」と思っている中高生が「それでも自分で決めるしかない。誰かが与えてくれるものでも、偶然見つかるものでもない。」ということに気づき、勇気を持って山登りに出発することが出来たら、考えたり試したりできる環境ではとんでもないアドバンテージがあると思っています。
また、私と同じように「何か」を求めて協力隊になったり移住を考える人も多いのではないかと思うので、これからも伝えていくことができたら嬉しいです。
私は 今日も山を登ります。